フランス革命前後のある貴族の動向です。
Wikipedia
の抜粋を試訳しました。

François Alexandre Frédéric, duc de la Rochefoucauld-Liancourt
ラロシュフコー=リアンクール公爵フランソワ・アレクサンドル・フレデリク

ラロシュフコー=リアンクール公爵フランソワ・アレクサンドル・フレデリク(1747.1.11 – 1827.3.27)は、フランスの社会改革者。

Image: Wikipeida

若年期

父親は王室衣装担当官、デスティザック公フランソワ・アルマン・ド・ラ・ロシュフコーで、イルドフランスのラロッシュギュイヨンで生まれた。幼少時の呼び名はリアンクール公で、近衛士官になり17歳で結婚した。イギリスを訪れたことがきっかけて、イギリスとスイスから取り寄せた畜牛で農場経営を立ち上げ、また、領地に紡績工場を設立した。軍人の子弟のために工芸技術学校 École nationale supérieure d’arts et métiersを創設し、1788年に王室の支援を受けÉcole des Enfants de la Patrie となり、2008年にArts et Métiers ParisTechと改名された。

Image: Wikipeida “Château de La Roche-Guyon”

フランス革命

1789年の全国三部会に選出され、引き続き社会改革を押し進める一方、王制支持の道を探ったが実を結ばなかった。
7月12日、バスティーユに民衆が突入する2日前、国王ルイ16世にパリの状況を警告すると、驚いた国王に暴動(une révolte)かと問われ、「Non, sire, c’est une révolution(いいえ、陛下。革命でございます)」と答えた。
7月18日、憲法改正国民議会の議長になった。ノルマンディに軍師団が設立され、国王にルーアンへの避難を進言したがかなわず、大量の資金を援助した。

Image: Wikipedia “Louis XVI by Antoine-François Callet, 1786”

Image: Wikipeida “Opening of the Estates-General on May 5, 1789 in the Grands Salles des Menus-Plaisirs in Versailles.”

亡命

1792 年8月10日のチュイルリー宮殿襲撃事件のあと、イギリスに逃れアーサー・ヤングのもとに逗留した。そこで、ヤングの義理の姪、フランシスとサラ・バー ニーと知り合った。フランシスは日記に当時の様子を詳細に書き記している。1792年9月14日、従兄弟のラ・ロシュフコー・ダンヴィル公ルイ=アレキサン ドルがノルマンディ・ジソールで暗殺され、ラ・ロフシュフコー公の称号を継承した。

Image: Wikipedia “The Storming of the Tuileries Palace, on 10 August 1792.”

1794 年にイギリスを離れアメリカに渡った。1795年、5人の同行者と視察の旅に出発し、アメリカ合衆国北部とアッパーカナダを回った。ナイアガラ川を渡りフォートエリーに入り、また、フォートチッパワを訪ねた。次にカナダ・ニューアークに向かい、ジョン・グレイヴス・シムコー副総督の歓待を受けた。ローワーカナダに 入ることを禁じられ、旅が中断された。アメリカに戻り、1799年に亡命生活を終え、フランスに帰国した。

フランス帰国後

パリに戻ると、ナポレオンから敬意をもって、ただし、疎遠な待遇を受けた。王政復古で貴族議員になったが、父が名誉回復のため40万フランを出資していたにもかかわらす、ルイ18世に衣装担当官への復帰を断られた。その後の政府では、革命政府の時期も王制期も、リアンクールの学校の重要性が認められ、シャロン=アン=シャンパーニュに移転していたÉcole nationale supérieure d’arts et métiersの政府査察官に23年間就いた。

Image: Wikipeida “The Arts et Métiers ParisTech (1806) in Châlons-en-Champagne “

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現在の末裔、ラ・ロシュフコーさんがフランス革命についてインタビューに答えている記事を、こちらに投稿しています。

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