ジャコボ・ティッシ
2022年5月11日2016年、話題となったデヴィット・ホールバーグのモスクワボリショイバレエ団への移籍から数年後、イタリア人ダンサー、ジャコボ・ティッシは同じステップを踏んだ。スカラ座バレエ学校卒業後、即座にスカラ座のプリンシパルとして契約し、アメリカンバレエシアターと共同制作したアレクセイ・ラトマンスキーが史実に基づいて振り付けた「眠りの森の美女」のデジレ王子でデビューした。翌年、ティッシはボリショイ劇場に移籍し、クラシックバレエのほぼ全てのレパートリーと、ラトマンスキー、ユーリ・ポソホフ、マウロ・ビゴンゼッティが振付た新作に出演した。2022年1月、ボリショイ劇場はティッシをプリンシパルに昇格させた。 そして今、唐突にティッシのボリショイバレエ団でのキャリアが終わりを迎えた。ロシアが隣国ウクライナに侵攻する直前、ティッシはバッハの「フーガの技法」に基づくラトマンスキーの新作に取り組んでいた。そして、2月24日、ロシアが侵攻した。両親の一人がウクライナ人であるラトマンスキーはその朝モスクワを離れた。その後、事態の深刻さが徐々に明らかになっていく中で、ティッシは出国するという難しい決断を下した。3月4日、モスクワを離れ家族の待つミラノへ飛んだ。 帰国して数週間後、現在マニュエル・ルグリが芸術監督を務めるスカラ座のプリンシパル・ゲストアーティストになると発表された。近頃、ティッシはユースアメリカングランプリコンクールのガラ公演に出演するため、フロリダ州タンパを訪れていた。米国から帰国してすぐに電話でインタビューした。 米国でのバレエ公演は初めてですか?前に一度来ました。2017年にリンカーンセンターで「ジュウェルズ」の公演があり、ニューヨークシティバレエ団、パリ・オペラバレエ団、ボリショイバレエ団が参加しました。私はアリョーナ・コワリョーワとダイヤモンドを踊りました。 別世界のようですよね。はい。あまりにも多くのことが起こりました。 ミラノに戻っていかがですか?予想だにしない唐突な変化でした。事態を把握するのに時間がかかりました。重要な時期の後にイタリアで新しいチャプターを始めるために帰国したことは前向きなことです。それに、家族と一緒にいることはいいことです。ただ、把握するのはとても難しいことです。 軍事侵攻前の日々に、何か大きなことが起こりそうな予感はありましたか?何となく気がかりはありました。何かが起きそうなことは感じとっていましたが、実際に起こるまでそれが何かはっきりわかりませんでした。 それが深刻だということに気がついたのはいつですか?事態のエスカレーションは急激でした。2つの州が独立宣言してから数日後、(プーチン大統領がウクライナのドネツク・ルハンスク両州の独立を2月21日に宣言した)、ドミノのような進展でした。事態が好転しそうにないことがわかり、周囲の雰囲気が変わったことが感じられ、そんな中で、3月4日に出国することを決意しました。 戦争が始まった時、ティッシさんは「フーガの技法」の創作過程の最中でした。スタジオの雰囲気はどんな感じでしたか?リハーサル中はバブルの中にいます。緊張や違和感は何も感じませんでした。アレクセイ・ラトマンスキーはとても静かな人です。ダンサーと同様にラトマンスキーさんも何かを製作している最中は目の前の仕事に集中しています。おそらくプライベートでは違うのでしょう。 どんな要素が出国の決め手になりましたか?自分自身に問いかけました。ダンサーの仕事は、自分自身を表現するために、周りの世界との関係である種の調和と落ち着きを感じる必要があります。今回の衝突が起きた時、そして、イタリア政府がイタリア人にロシアを離れるように要請し始めた時、国境が閉じられるだろうと思いました。行動を起こす時は今だと悟りました。 辛かったでしょう。はい。何よりもまず、誰もこのようなことが起こり得るとは考えていませんでした。ただ、同様に、どこかで5年間生活すると、友人や教師、劇場との絆が築かれます。このような唐突な人生の変更、強いられた変更という考えはそう簡単ではありません。私には悲しい時、厳しい瞬間です。 イタリアへ直行便で帰国できましたか?いいえ。通常より時間がかかりました。イスラマバードに飛び、そこからローマへ行きそしてミラノにフライトしました。でも、文句は言えません。歩いて国境を超えてウクライナの戦争から逃れている人たちを見ているのですから。私の状況は恵まれていました。 ロシアやボリショイに将来戻ることができると思いますか?なんとも言えません。状況が変わり、そして、もちろん戦争が終結することを望んでいます。でも、今起きているショッキングなことを考えると、将来を予測するのはほとんど不可能です。 ロシアを去る時、スカラ座に入団できると見込んでいましたか?いいえ。何も計画はありませんでした。とにかく出国しました。ミラノに到着して数日後、スカラ座に連絡して稽古をしてもいいか問い合わせました。その後、マニュエル・ルグリと会い、数日後、このポジションのオファーがありました。 このポジション、レジデント・ゲスト・プリンシパルとはどういうものですか?年間のほとんどをミラノをベースにします。ただ、他のバレエ団のゲストとして出演することもでき、少しフレキシビリティがあります。ボリショイでは、とてもスケジュールがタイトで他のバレエ団に出演する機会は多くありませんでした。 今後どのような公演が控えていますか?5月にローマオペラ座で「海賊」に出演し、その後、スカラ座での最初の舞台は7月に「ジゼル」を踊ります。 ボリショイで「ジゼル」を踊っていますよね。はい。ただし、(史実を基にした)アレクセイ・ラトマンスキー版でした。私はこのジゼルしか踊ったことがありません。伝統的なジゼルは初めてです。 ティッシさんはスカラ座バレエ学校出身ですね。特定のバレエスタイルを持っていると考えますか?私は8年間ミラノでバレエを習いました。ここが私の基本です。次に、ボリショイで学び成長し芸術家として確立しました。ボリショイでの5年間は、現在の芸術家としての自分の基礎となりました。ボリショイには確固としたスタイルがあり、この先もずっとそれを持ち続けていきます。 スカラ座バレエ学校の特徴は何ですか?ミラノの生徒は非常に強い確固とした基礎があります。 それでは、ボリショイでは何を身につけましたか?教師から生徒に知識を伝授するという素晴らしい教育システムがあります。このようにしてスタイルが受け継がれてきました。モスクワでの私のコーチ、アレクセイ・ヴェトロフについて5年間励んできました。コーチのお陰でジャンプのテクニックが著しく上達し、また、芸術家として成長するよう導いてくれました。日々稽古をする中で、コーチはボリショイのスタイルを伝授してくれました。このような稽古の方法はとても独特です。 …