将軍徳川家茂から
 皇帝ナポレオン三世へ

#芸術作品と外交 #遣欧使節団 #フォンテーヌブロー城 #最高級美術品 #1860-1864 #贈答品

フォンテーヌブロー宮殿に長年眠っていた日本美術コレクション(徳川幕府が遣欧使節などを通じてフランス皇帝ナポレオン3世に贈った品々)が、宮殿で開催された展覧会(2021年6月4日〜9月19日開催)に展示された。

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Cette exposition réunit des objets provenant exclusivement des collections du château, qui ont été offerts à Napoléon III entre 1860 et 1864. Ces cadeaux diplomatiques ont été mêlés aux objets chinois et siamois réunis par l’impératrice Eugénie au sein du musée Chinois aménagé dès 1863, puis pour certains installés dans le salon des Laques en 1868. Un temps exposé et admiré, cet ensemble d’œuvres d’art a par la suite été progressivement oublié. www.chateaudefontainebleau.fr/

<試訳> この展覧会では、1860年から1864年にかけてナポレオン三世に贈呈された<フォンテーヌブロー>宮殿のコレクションから展示しています。これらの外交上の贈り物は、ウジェニー皇后が収集した中国とシャムの芸術作品と共に、1863年に設立された宮殿内の「中国室」に展示されました。その一部は1868年に「漆の間」に置かれました。この一連の芸術作品は、しばらく展示、鑑賞されていましたが、徐々に忘れられていきました。

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フランスからの贈り物(電信機)に対する返礼品として送られた。

佐野の渡図屏風
『1860年に贈られた「佐野の渡図屏風」は、狩野派の絵師が描いた金屏風で、雪の中を旅する平安時代の貴族の姿が描かれ、裏には幕府の贈り物の特徴とされる金ぱくが貼られています。』
www3.nhk.or.jp

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第一次遣欧使節団(1862年)が持参した贈答品

10幅の掛軸
 2幅:水墨画
 8幅:彩色画(春から秋を描いた風景画・花鳥画)

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紅葉に青鳩図 狩野春川筆

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第一次遣欧使節団が帰国後、幕府は各地でのもてなしに感謝を込めて訪問した国々に美術工芸品を送った。

源氏蒔絵箪笥

外側:源氏物語から留守模様
内側:胡蝶
*留守模様とは、源氏物語などの古典文学等の登場人物を表さず、象徴となる背景や持ち物・小道具などの意匠でその作品や演目を連想させるもの。 留守模様を理解するには幅広い教養が必要で、特に上流階級の生活を彩る漆工品などに好んで用いられた。

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蒔絵

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作品の全体像写真が掲載されている記事

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幕府の遣欧使節団(1862, 1864)

『幕府の遣欧使節団は、1862年1月から翌年にかけて、当時日本と修好通商条約を結んでいたヨーロッパの6カ国(イギリス、フランス、オランダ、プロイセン、ロシア、ポルトガル)に派遣されました。派遣当時の年号にちなんで「文久遣欧使節団」とも呼ばれています。その主な目的は、上記各国との条約で定められた開港(兵庫・新潟)、開市(江戸・大坂)の実施延期や、ロシアとの樺太国境問題を交渉することでした。
 この使節団は、正使の竹内保徳以下、幕府の官吏36名(のち2名加わる)で構成され、その中には、後に明治の言論界をリードすることになる福沢諭吉や福地源一郎、後に外務卿となる寺島宗則(当時の名前は松木弘安)など、明治維新後の日本で活躍した人材もいました。
 1862年1月22日(文久元年12月23日)に品川から出航した一行は、香港・シンガポールを経てエジプトを通過し、3カ月弱で最初の訪問国フランスに到達しました。しかし、肝心の開港延期交渉がまとまらず、一行は交渉を留保したまま英国に移動しました。英国での開港延期交渉では、一時帰国中の駐日公使オールコック(Rutherford Alcock)が加わって日本側を弁護したこともあり、使節団は、英国政府との間で、新潟と兵庫の開港、江戸と大坂の開市を1863年1月1日から5カ年延期することを取り決めた「倫敦(ロンドン)覚書」に調印することができました。その後、使節団は他の締約国とも同様の覚書を取り交わし、1863年1月(文久2年12月)に帰朝しました。
 この使節団については、明治初期に外務省が編纂した幕末外交史料集『続通信全覧』の「類輯之部 修好門 竹内下野守・松平石見守・京極能登守使節一件 附録」に記録があります。また、外交史料館では、上記「倫敦覚書」のほか、一行がロシアのペテルブルクで撮影したといわれる写真や、オランダで活版印刷を用いて作成された一行の名簿など、関係史料の原本を所蔵しています。これらの史料は、外交史料館開館25周年を記念して1996年(平成8年)に開催された展示会「外交史料館所蔵物品資料展」や、2009年(平成21年)の特別展示「日英交流事始」で展示されました。』

www.mofa.go.jp/

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ナポレオン3世に謁見する使節団 / Solemn reception of the Japanese ambassadors to the Tuileries castle on Sunday, April 13, 1862. Image: Wikipedia

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『こうした中、幕府は、カミュ少尉殺害事件の賠償交渉、長州藩の下関砲撃事件の解決に加え、横浜鎖港の問題を議論するため、2回目となる遣欧使節団の派遣を決め、12月5日、若年寄の田沼意尊と立花種恭らがデュシェヌ=ド=ベルクールを横浜に訪ね、その考えを説明する。そして、使節団は、外国奉行で26歳の池田筑後守長発を正使として、1864年2月6日にフランス海軍コルベット艦ル・モンジュに乗って横浜を発つのである。』

『第2次遣欧使節団は、エジプトのピラミッドやスフィンクスも見た上で、4月15日にマルセイユに到着、4月20日にはマルセイユを発って翌日パリに到着する。一行は、1862年6月30日に完成した大型高級ホテルのル=グラン=トテル(現在のインターコンチネンタル=ル=グラン)に宿泊、4月23日にはドルアン=ド=リュイス外務大臣と大臣公邸で会談し続いてル=グラン=トテルでも歓談*4、5月3日に皇帝ナポレオン三世に謁見、5月7日にドルアン=ド=リュイス外務大臣と再び会談し交渉に入るのである。』

www.mof.go.jp

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第二次遣欧使節団 35人の写真 ➡︎ www.lib.u-tokyo.ac.jp

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