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‪King Louis XV of France‬

フランス国王ルイ15世

<From YouTube video uploaded by on Feb 5, 2012>

< さんのYouTube ビデオより 公開:2012.2.5>
 
 
ビデオ内解説の訳
 

フランス国王ルイ15世 1710-1774

From Wikipedia
Portrait of Louis XV de France enfant

ルイ15世は、1710年2月15日にヴェルサイユ宮殿で誕生した。時代は曾祖父ルイ14世の治世だった。ブルゴーニュ公爵ルイと妃であるマリー・アデレード・ド・サヴォアの3男だった。誕生と同時に、長男以外に慣習的に授けられる「アンジュー公」の称号が与えられた。さらに、現国王の曾孫として、「プティ=フィス・ド・フランス」であった。

1715年9月1日、ルイ14世の死とともに国王になった。

1721年、ルイ15世はスペインのいとこ王女マリア・アナ・ヴィトリアと婚約した。11歳の国王は、将来の妃となる3歳の幼い王女がスペインから到着しても、興味を示さなかった。1722年10月、ルイ15世はランス大聖堂で正式に王位に就いた。

1723年2月15日、パリ高等法院で国王が成人に達したことが宣言され、摂政政治が終わった。オルレアン公は、1723年8月のデュボワ枢機卿の死を受けて宰相となったが、同年12月に亡くなった。ルイ15世はフルーリの助言により、いとこのルイ・アンリ、ブルボン公を後任にした。ルイ・アンリは若い国王の健康を憂慮し、オルレアン家を国王の敵と見ていた。国王は非常に病弱で、度々命に関わる状態になった。スペインの王女はお世継ぎを産むにはまだ幼かった。こうして、ブルボン公は、跡継ぎを出産できる年齢のヨーロッパの王女探しに着手した。

最終的に、元ポーランド国王、スタニスロー・レシゼンツキの娘、21歳のマリー・レシゼンスカが選ばれた。父親が比較的低い立場だったので、この結婚が、次から次へ王家を選ばなければならなかったことで、厄介な外交問題になるということはなかった。1725年9月に結婚式が執り行われた。

2人は11人の子どもに恵まれた。

パルマ公爵夫人ルイーズ・エリザベト(1727-1759)

王妃レスザンスカと王太子

From Wikipedia
Marie Leszczyńska, reine de France (1703-1768) et le Dauphin Louis (1729–1765)

アンリエット (1727-1752)
ルイーズ (1728-1733)
フランス王太子ルイ (1729-1765)
フィリップ (1730-1733)
マリー・アドレド (1732-1800)
ヴィクトワール (1733-1799)
ソフィ (1734-1782)
死産 (1735)
テレーズ (1736-1744)
聖アウガスティヌのマザー・テレサ、ルイ・マリー (1737-1787)

ルイ15世は、1774年5月10日、ヴェルサイユ宮殿で天然痘のため逝去した。ルイ15世はブルボン家で初めて、伝統である心臓を取り出し特別な棺に納めることをしなかった。代わりに、棺にはアルコールが流し込まれ、遺体は生石灰に浸された。深夜執り行われた隠密の葬儀には、廷臣が一人参列し、サンドニ聖堂に埋葬された。

From le Château de Versailles website
Portrait de Louis XV, roi de France et de Navarre, en grand manteau, par Louis-Michel Van Loo, 1763 © RMN / Gérard Blot

YouTubeビデオキャプションの訳
 

ルイ15世(1710.2.15 – 1774.5.10)は、フランスとナバールの国王として、1715年9月1日からその死まで君臨した。5歳で王座を継承すると、1723年に成人するまで、摂政として仕えたいとこのオルレアン公フィリプ2世を、2度排斥した。フルーリ枢機卿は、1726年から1743年に亡くなるまで執政を行った。1743年に若い国王は王国の全権を掌握した。ルイ15世はブルボン王家の出である。

ルイ15世は、その治世の初期は評判がよく、「le bien-Aime(愛される国王)」と呼ばれた。時が経ち、宮廷の放蕩、(フォンテノワの戦いの結果)エクス・ラ・シャペルにおけるオーストリア・ネーデルランド共和国への占領地の返還、7年戦争の結果ヌーベルフランスの委譲により、アメリカ大陸の植民地とそこから輸入していた資源をすべて失って、ルイ15世はフランス史上最も人気のない国王となった。

ルイ15世の無分別な財政政策は、フランスの国力を阻害し、国庫を衰退させ、君主制の信用を落とし、ほぼ間違いなく国王の死の15年後に勃発したフランス革命につながった。